高校や大学で、日本史の事件をテーマにレポートを提出する課題が出ることってありますよね。
そんな時は、どんな事件を取り扱えば良いのでしょうか?
簡単な事件を扱うより、謎めいていたり、その当時の興味深い情勢を知ることができる事件ですと、見応えのあるレポートができますよね。
そこで今回は、明治以降(近代)の日本史で起こった事件を、いくつかご紹介します。
良し悪しではなく、日本って昔はこういう国だったんだな~と感慨深い内容です。
大津事件(1891年):対ロシアで大ピンチ!
明治時代の一大外交事件とも言われている、大津事件です。
滋賀県大津市で、ロシア帝国のニコライ皇太子に対し、警備にあたっていた警察官:津田三蔵が斬りかかり、皇太子が負傷します。
皇太子の命に別条はなかったものの、暗殺を試みたという国際的な大事件には変わりなく、対ロシア外交の上で、重大な問題となりました。
近代化して間もない当時のまだまだ弱小な日本に対し、ロシアは強大な存在であったため、国内は一時パニックに。
「加害者を死刑にせよ!」と政府に迫られるも、三権分立の立場を貫いた大審院院長(最高裁判所の長):児島惟謙は、津田に大逆罪を適用せず無期徒刑としました。現在も、一種の英雄として称えられています。
しかし、津田は収監されたあとですぐに死亡し、児島も裁判の翌年に賭博の疑いで辞職しました。なんだかきな臭いです・・・
また、畠山勇子という女性は、当時の日本と強国ロシアの立場を考慮して、「死んで詫びる」と遺書を残し、自殺をしました。このことは国際社会でも大きく報道され各国の同情をかい、ロシア側に報復させず、寛容な態度をとることにもつながったと言われています。
国の将来を心配して、直接の関係はないのに命をかける・・・凄まじい女性です。
千島艦事件(1892年):イギリスに物申す!
明治時代の2つめにご紹介するのは、千島艦事件です。
瀬戸内海で日本海軍の船:千島とイギリス商船:ピーオー汽船のラベンナ号が衝突、日本海軍の千島が沈没した事件です。この時、千島の乗員74人が死亡しました。
しかもこの千島、フランスで製造された船なのですが、日本に到着したその足で沈没です。。。
この事件は、日本政府が訴訟の当事者として、外国の法廷に出廷した最初の事件で、領事裁判権の撤廃問題※と絡んで、日本国内外を巻きこむ政治問題にも発展しました。
外国人が日本で犯罪を犯した場合、日本の法律ではさばけず、日本にいるその外国人の国の領事が、外国の法律に基づき裁判を行うこと。現代ではあり得ない不平等条約の1つ。
日本は、損害賠償を85万円請求し、ピーオー汽船は日本政府へ10万円の損害賠償請求を行いました。
第一審の横浜の英国領事裁判所では日本がほぼ勝訴、次の第二審、上海の英国高等裁判所ではピーオー汽船の勝訴となりました。
これに不服とした日本は、イギリスの枢密院に上告し、結果、ピーオー汽船は約9万円の和解金と、日本の訴訟費用を支払い、和解(実質日本の勝訴)となりました。
加藤老事件(1915年):怖い冤罪事件
大正時代の加藤老事件です。
本来の加害者の嘘の供述によって共犯とされた男性:加藤新一に、事件後62年経ってから再審され、無罪が言い渡された事件です。
いわゆる、ひどい冤罪事件です。
62年経ってからの無罪判決は、日本の司法では最長です。調べてみると、当時のいい加減さが垣間見える悲しい事件です。
本来の加害者は、最初は別の人を共犯だと言いましたが、その人が取り調べの結果、無罪とわかると、加藤さんを共犯だと証言しました。
この時点でこの証言、信憑性がおかしいですよね・・・
加藤さんは無罪をずっと主張し続けましたが、無期懲役を言い渡されます。模範囚として十数年後には出所でき、その後も無罪を主張して再審請求を何度も行いましたが、却下され続けました。
1975年に白鳥事件という別の事件により、「疑わしい時は、被告人の利益とする」という白鳥決定という見解が示されたことがきっかけで、日本弁護士連合会が支援し、6度目にして再審が決まり、無罪となりました。
俺の人生、返せ!ですよね・・・
二・二六事件(1936年):近代日本でのクーデター!
激動の昭和時代からは、二・二六事件です。
1936年の2月26日から3日間に行った、軍の皇道派の青年将校によるクーデター未遂事件です。皇道派とは、天皇の親政を力づくでも実現しようとした勢力です。
青年将校らが奸臣※とみなした政府要人を暗殺し、昭和維新につなげるのが目的で、約1,500名の兵士が率いられて起きた、近代の日本で最大規模のクーデター事件です。
高い地位について、賄賂などで私服を肥やすような、天皇と国に対して悪いことをして腐敗している重臣。
総理大臣官邸、内務大臣官邸や複数の大臣達の自宅、陸軍省に参謀本部、警視庁、複数の新聞社などが襲撃を受け、松尾陸軍大佐、高橋大蔵大臣、斎藤内大臣、渡辺陸軍大将、警察官5名が亡くなり、重軽傷者も多数出る大惨事となりました。
国のためを思い、天皇による政治を目指した226事件ですが、昭和天皇はこれに激怒し、反乱軍として武力鎮圧を命じました。
日本にも、こんな激しい時代があったのですね。軍は、本来は武力という力を持っているんだな、ということを思い出せる事件です。
この後、皇道派とは別の統制派という陸軍内のグループが発言力を増していき、太平洋戦争へのきっかけの1つとなったと言われています。
盧溝橋事件(1937年):日中戦争へのきっかけ
盧溝橋事件は、北京郊外の盧溝橋で起きた、日本軍と中国国民党軍の衝突事件です。7月7日だったので七七事変とも言われている、日中による全面戦争の直接の導火線ともなった出来事です。
教科書にも載っていますし、知っている方も多いのではないかと思います。
日本軍への発砲がきっかけですが、どこの誰が撃ったのかはハッキリしていないとされています。また、中国国民党軍にも、発砲がありました。お互い、「誰かに」発砲されたため、日本軍は国民党軍に発砲、国民党軍は日本に発砲されたと思い込み、衝突してしまいました。
4日後に一度は停戦協定が結ばれたのですが、中国側からの「通州事件※」などをきっかけに、再発。
7月29日に中国の通州で、在中国の日本人と日本軍が中国人部隊に強襲され、猟奇的な虐殺をされた事件。
通州事件は人間のできることではないほどの、凄まじい惨状だったようです。調べる際はご注意ください。。。非常に不愉快になります。
その後、衝突はエスカレートしていき、支那事変(日中戦争)となりました。さらにそれは拡大して、太平洋戦争へと繋がります(涙)
浅間山荘事件(1972年):テロ組織による人質事件
あさま山荘事件は、長野県軽井沢町で起こった、連合赤軍が人質をとって9日間もたてこもった事件です。死者3名と負傷者27名を出す大事件となりました。
毛沢東主義を掲げた、1971年頃の日本の革命テロ組織。共産主義。
この事件が起こるまでに、彼らは様々な犯行を繰返し逃走していました。そして、警察に追われ、逃げている最中に軽井沢に出て、そこで浅間山荘にたてこもりました。
極寒の中での犯人と警察の攻防や、鉄球での浅間山荘の破壊シーンなど、衝撃的なテレビ中継の映像は、当時の日本の人々に大きなショックを与えました。
さいごに
レポートにおすすめの日本史の事件でした。
割と有名だと思える事件を挙げてみましたが、興味深いものがあれば幸いです。
やはり、太平洋戦争前後の日本の激動は、本当に凄いですね。生き抜いてこられた先人達に脱帽です(^^;
現代は本当に平和だな、と思えますが、この平和をしっかり守っていくためにも、過去の日本史や国際情勢を勉強するのはとても大切ですね。
興味のある事件、調べてみるとおもしろいですよ♪
初めまして、前々からよく読ませて頂いていました。
政治や世界情勢のことをよく知らない私にとても解りやすく教えてくれる先生のようなサイトだったので、最近更新がなくて寂しいです。
次回の更新、気長に待っています。
あ、ごめんなさい!
嬉しいコメントをありがとうございますm(_ _)m
ネタはいくつかあるのですが、忙しさにかまけていました・・・
近々更新致します!