卑弥呼と邪馬台国!小学生にもわかりやすく!

最近、6年生の長女が、社会の授業で、
歴史を習い始めました。

今は、古代の日本の歴史をしているようで、

パパ、卑弥呼(ひみこ)って知ってる?

と聞いてきました。

ええ、ええ、知っていますとも。


パパは、歴史が大好きで、君(長女)が小さい頃から、
色々な歴史の話を聞かせてきたじゃないですか?

例え、ウザがられても・・・(*´Д`)

でも、やっと努力が実を結び、
歴史に興味を持ってくれたようです(シメシメ)


そして、長女は、まだまだ邪馬台国について、
知りたがっている様子でした。

むむっ!

これは、
さらに歴史好きにするチャンス!

とばかりに、卑弥呼と邪馬台国のことを、小学生にも
わかるように、話して聞かせました。

その時に話した内容をまとめましたので、ご紹介しますね~

卑弥呼と邪馬台国とは?何時代?

古代巫女イメージCopyright © 2010 Yoshinogari Site by Dick Thomas Johnson


邪馬台国は、弥生時代の後期に日本にあったと
されている国です。

弥生時代:紀元前300年頃から西暦300年くらいの600年ほどの時代


当時、日本は倭※(わ)と呼ばれる名前の国(倭国とも)でした。

そして、倭の中にもいくつかの国が存在していて、
邪馬台国は、倭国にあったとされている、国の1つです。


邪馬台国は力の強い国で、30ほどの国々を、
支配下においていました。

※この倭はやがて、和に変わり、日本であることを示す
漢字になったと考えられています。
例)和食とか、和式、和室ですね^^


初めは、邪馬台国は男性の王が治めていましたが、
騒乱が起こりました。

その騒乱が7、80年も続き、戦いに疲れはてた、
それぞれの勢力は、共同で、ある女性を女王としました

この女性が、有名な卑弥呼(ひみこ)です^^

卑弥呼の時代は、西暦180年頃から248年頃でした。

人前には出てこず、1,000人の女性が卑弥呼の世話をしていて、夫もいなかったそうです。

卑弥呼は、鬼道(きどう)と呼ばれるまじないで、天災や戦争を占いながら政治を行い、弟が補佐をしました。

卑弥呼が亡くなったあとは、とても大きな墓(直径150メートルほど)が作られました。


1,000人の侍女(じじょ)=召使や、大きな墓の部分などから、
卑弥呼は相当な権力者であったことが伺えますね。


でも、日本からは、当時の卑弥呼に関する
文献(ぶんけん)が、見つかっていません

では、卑弥呼のことは、どうやって私達は
知ることができるのでしょう?

これを次で見てみましょう!

スポンサーリンク

卑弥呼を知る手がかり!魏志倭人伝(ぎしわじんでん)

卑弥呼のことは、古代中国の、魏志倭人伝(ぎしわじんでん)という
文献に出てきます。


中国大陸には当時、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)という
3つの国がありました。

それぞれに、皇帝がいたので、この時代を三国時代と呼びます。

三国志のお話が有名ですね。


そして、この3つの国の中で、最も勢力が大きかったのが、
魏であったため、卑弥呼は魏に使いを送りました。

そのため、卑弥呼から使いが来たことや、そのお返しに、
魏の皇帝から、親魏倭王(しんぎわおう)の称号や、
金印、銅鏡100枚を授けたことが、魏志倭人伝に記載されています。

中国の文献にしか卑弥呼が出てこないのは、中国は周辺国の王の名前に、さげすんだ漢字を使うことが多かったため、卑弥呼は中国独自の名前ではないか?日本では別の名前だったのでは?という説もあります。


では、邪馬台国はどこにあったのでしょうか?

スポンサーリンク

邪馬台国の位置は?どこにあったの?

吉野ケ里遺跡なる。天気がいい。2009 吉野ケ里遺跡なる。天気がいい。 by kisocci


邪馬台国がどこにあったのかは、決定的な証拠がなく、
はっきりとはわかっていません

日本史の大きな謎の1つです。


ただ、2つの場所が、有力な候補とされています。

それは、魏志倭人伝に記載された内容や、発見された遺跡、
銅鏡の出土場所から、近畿説と九州説に分かれています。

こちらで、それぞれの根拠を見てみましょう。

<近畿説や九州説の根拠>

  • 魏志倭人伝
    魏志倭人伝には、邪馬台国までの方角と距離が書かれています。
    しかし出発地が現在のどこなのか、距離の単位や方角についても考え方が色々あります。
    魏志倭人伝の通りに地図上を進んでみると、解釈によっては九州にたどり着いたり、
    四国にたどり着いたり、近畿だったりと、ハッキリしていません。
  • 吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)
    九州の佐賀県・吉野ヶ里遺跡からは、魏志倭人伝に書かれている、
    宮室、城柵、樓觀が揃って発見されています。
    そのため、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国ではないか?という説があります。
  • 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)
    1998年に奈良県天理市の黒塚古墳から、三角縁神獣鏡と呼ばれる銅鏡が、
    33枚発見されました。
    こんなに数多くの銅鏡が出土するのは珍しく
    魏の皇帝から卑弥呼へ授けられた銅鏡100枚の一部ではないか、という説があります。
  • 纏向遺跡(まきむくいせき)
    2009年に奈良県桜井市の纏向遺跡から、3世紀ごろの大規模な建物跡や
    古墳が発見されました。
    建物跡は、この時代(卑弥呼の時代)のものでは最大級の大きさで、
    ここが邪馬台国ではないか?という説があります。


今のところは、近畿説が有力とされているようですが、
どれも決定打とはなっていません。

将来、纏向遺跡以上に、大きな建物跡の遺跡が、
発見されることも、あるかもしれませんね。


続いて、邪馬台国がその後どうなったのか見てみましょう。

邪馬台国のその後

Yoshinogari Site2010 Yoshinogari Site by Dick Thomas Johnson


卑弥呼が亡くなった後、男性の王が治めることになりました。

しかし、また騒乱が起こってしまいました(ToT)

そこで、卑弥呼の親族から、13歳の女性
女王に立てることで、騒乱は収まりました。


この女性は、壱与(いよ)※といいます。
※台与(とよ)とも言われています。


卑弥呼は夫がいなかったと、魏志倭人伝に書かれていますので、
壱与は、娘ではないとされています。


当時の豪族たちは、男性に従うのはイヤでも、
女性には従えたんですね。

当時の豪族の男性同士に、微妙な空気があったんでしょうか(^^;


邪馬台国のその後は、2つの説に分かれています。

  • 発展して大和朝廷(ヤマト王権)になったという説
  • 大和朝廷とは別の勢力・王朝であり、消滅したという説


邪馬台国の場所が不明なことと同じように、
その後についても、決定的な証拠が出ていないので、
議論が分かれています。


ただ、邪馬台国は、卑弥呼と同じように、
倭人の発音から、中国オリジナルの漢字を当てはめた
と考えられます。

そして、その発音ですが、「ヤマト」という発音に、
かなり近くなるとされています。

ってことは・・・^^

さいごに

卑弥呼と邪馬台国のお話でした!

この話し方で、長女は当初の目論見通り、納得した様子で、
さらに歴史好きになってくれたようでした( ̄v ̄)


これでお子さんも、もっと歴史好きになるかも!?

読んでいただき、ありがとうございました。

スポンサーリンク

SNSで拡散してもらえたら、スゴク嬉しいです!

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

コメント

  1. 匿名 より:

    神功皇后(卑弥呼)は政略結婚で魏に贈られた人質。
    狗邪韓国経由で魏に贈られたが後に魏が黄旗を授けて傀儡として
    仲哀、忍熊、弟媛の支配する正統邪馬台を滅ぼして女王となった。
    確かに国中服さず反乱を起こされたのは当たり前だね?
    後に黄旗は神格化され八幡神になったと思われるがいかがか?
    弥生時代~古墳時代は騎馬民族時代とするべき。

    結論、邪馬台国は魏の傀儡政権だった。

  2. にやかた より:

    卑弥呼すごい⁉(;_;)(^^;(^^;(^^;(^-^)/(;_;)(^-^)/(^-^)/(^-^)/

  3. 颯太 より:

    初めて知った(^○^)

  4. ふルル より:

    卑弥呼はすごいですね❗
    もしかしたら、九州、四国遺跡などが卑弥呼の陣地だとしたら、三角ぶちしんじゅう鏡が、発見された理由も辻褄が合うと思うんです❗・・・どうですかね?

    • オトメンパパ より:

      ふルルさま、こんにちは。

      うーん、そうだと面白いですよね。
      そんなに珍しくない鏡だった、という意見もあるようでわかりませんが、
      ロマンがあって、とても好きです^^

  5. ヴィジュアル系ロックバンド大好き! より:

    オトメンパパさん とっても分かりやすかったです‼今度は小学生向けにおね(ねね)のことを教えて下さい

    • オトメンパパ より:

      了解です!
      歴史編、やりたいのですが、なかなか時間がとれず・・・
      でもご要望もいただきましたし、近々やりたいと思います!